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追憶(UD)

 = 前書 =
 
 追憶1-340

 このものがたり「追憶」は、昭和の安定成長期、台湾の合弁会社へ何度も長期出張し、手探りで仕事や現地の生活に踏み込んでいき、次第に習慣にも慣れ、現地でめぐり合った人間関係の中で、台湾の生活を楽しみ、ゆとりをもって異文化を見られるようになっていった、一人のサラリーマン「竹内翔」の思い出を、エピソードを盛り込んで綴ったものです。
 
 1.初めての海外生活

 今から29年前(1981年)竹内翔(Sho)が31歳の時、初めて海外(台湾)へ仕事で半年間(5~10月)出張することになりました。当時国際線の運航があったのは、千葉の成田空港と大阪の伊丹空港でした。翔は、自宅からより近い大阪の伊丹空港から台北空港(台湾の桃園国際空港)へ飛び立ちました。機内でこれからの半年間についてあれこれ思いをめぐらしている内に、間もなく飛行機は台北空港へ着陸しました。ボーディング・ブリッジを渡り、入国手続きへと足を進めました。まず独特の匂いに、異国を感じずにはいられませんでした。入国手続きへ向かう通路には自動小銃を肩にした憲兵が立っており(今は、このようなことはありません。)、このような状況に出くわしたことのない翔は、あの小銃からいつ弾が飛んでくるかと恐怖さえ覚えました。妙な孤独感と不安を感じながら多くの入国者の流れの中で、今思うと「いつの間にか」といった感じで「入国審査・荷物受取・関税検査」を終え、到着ロビーへ出ました。

 1桃園国際空港-340

 到着ロビーでは、翔がこれから勤める現地との合弁会社が手配してくれたタクシーの運転手が出迎えてくれました。片言の日本語で運転手に案内されるままにタクシーに乗り込み、合弁会社がある台中市のホテルへ向かいました。タクシーは空港から暫く走ると、台北から高雄へつながる高速道路へ入りました。道路わきには見たこともない赤に近い濃いピンク色の花をつけた樹木が立ち並んでいて、とても奇麗でした。後で知りましたが、あの花は台湾桜とのことでした。又道路から少し離れた山々には、南国特有の幹がスラット伸びてその先端に緑の大きな肉厚の葉を具えた「ビンロウ・バナナ」の木々がいたるところにありました。タクシーが一時間ほど走ると、高速道路なのに中央分離帯がなくて、その代わりに高さ1mほどのポールが一定の間隔で立ち並んでいる場所がありました。タクシーの運転手の話では、ここは有事の時に戦闘機が離着陸するための配慮とのことでした。このような景色の中を通り過ぎるにつれ、異国へ来たことが一層確かなものとして翔に伝わってきました。やがてタクシーは、当分の間翔が寝起きするホテルへ到着しました。ホテルでは、合弁会社に常駐している先輩が出迎えてくれました。その夜は先輩の案内で食事をしながら、翔が慣れるまでの通勤手段や翌日からの当面の仕事の打ち合わせをしました。食事の後ホテルへ戻り、荷物の整理を終えシャワーを浴びると、どっと疲れが出て眠くなってしまい、その夜は朝までぐっすり眠ってしまいました。こうして、翔の初めての半年間に及ぶ台湾での生活が始まりました。

 2高速道路-340
 
 ここで、当時の翔の出張目的を少しお話しておきます。翔は某製造会社で、新製品の開発業務を担当していました。労働集約型の翔の勤める会社の製品は、1970年代の日本の高度成長に伴う人件費の高騰と石油危機での物価上昇の影響で、利益が減少の一途をたどっていました。このような事業環境を乗越え利益確保を図るため、競合メーカーを含め人件費の安い台湾に合弁会社を設立して、生産を現地へシフトする過渡期でした。当時新製品の開発業務を担当していた翔は、前述した会社の事情から新製品を現地で生産するために、半年間に渡り台湾へ出張することになりました。具体的には、新製品の部品の現地合弁会社の下請けメーカー巡廻指導による調達と、合弁会社での新製品の生産化を現地スタッフと協業して推進することでした。

 仕事で来たのだから当然のことですが、訪台の翌日からさっそく現地の合弁会社へ出勤が始まりました。初日は、これから一緒に仕事を進める合弁会社の董事長(会長)・総経理(社長)・他主な皆さんとの顔合わせと、新製品の現地関係者への説明会で暮れました。現地スタッフの皆さんとの顔合わせで驚いたことは、主任クラス以上の人たちは本当に日本語が上手なことでした。後述しますが、この人達の助けを借りて仕事を進めて行くことになります。そしてその中で、やはり大切なことは、現地の言葉を覚え現地の人達の中へ入り込んで行くことだと知りました。又新製品の現地関係者への説明会では、現流動製品を含めた生産課題に対する質問と、早急な対応を求められました。その要求は、日々一定の生産数量を達成しなければならない生産現場の立場としては当然のことだと思いました。翌日からは、本社(日本)の協力を得ながら説明会で受けた生産課題への対応と、半年間使うことになる自分の机の整理と、日本から持ち込んだ図面の整理(実際には、現地の女子社員にお願いしました。)などで、最初の二週間ほどはあっという間に過ぎて行きました。

 平日のお昼は、常には工場の二階に設けられた食堂で摂りました。食事は個別のトレイではなくて、大皿に盛り付けた「野菜料理・魚料理・肉料理」と、大なべに入った「ご飯」がそれぞれのテーブルに置かれており、一つのテーブルを10~15人で囲んで、自分の皿にご飯とおかずを大皿から適当に取り分けて食べるようになっていました。食べ方は、左手に大き目のスプーンを持ち、皿の上に置いたスプーンに右手に持った箸でご飯とおかずを乗せ、左手で食べます。やってみると分かりますが、ご飯は日本米と違って少しパラパラしていますので、料理に合った合理的な食べ方だと思いました。最初は独特の香辛料の匂いに少し戸惑いましたが、暫くするとそんなに気にならなくなりました。

 当分の間翔が寝起きしたホテルは、台中市の中区にありました。中区は、東の端は台中駅の前の南北に延びる建国路から始まり西の端は五権路までと、南の端はこれらの道に直交して東西に延びる国光路沿いの台湾省議会へつながる林森路から始まり、北の端は台中公園沿いの公園路に囲まれており、この4本の道に囲まれた市街地は、無数の道が碁盤の目のように整備され、初めて訪れた翔でも道に迷うことなく容易に街歩きができました。今では工業の発展につれ繁華街は工業区寄り(台中市西区)に移ってしまいましたが、当時の中区は台中市の中で最もにぎやかなところでした。市政府を中心に、百貨店・ホテル・銀行・飲食店・日本料理の店・居酒屋・スナック・理髪店・按摩の店・客を呼び込む怪しげな店・土産物を売る店・電化製品の店・時計の販売と修理をする店・生活用品の店・靴やカバンの販売と修理をする店・バイクや自転車の販売と修理をする店・金物屋・薬局・宝石店など、あるとあらゆる店が軒を並べており、散策するには飽きることはありませんでした。ことに中華路の夜市は特別で、屋台で食事をする人たちや、買い物をする人たちで深夜までにぎわっていました。小さな子供までが、夜遅くまで出歩いていることには驚きました。

 3中華路-340
 
 訪台して暫くの間は、自分が半年間過ごす市街地をよく知っておきたいと思い、休みの日には街へ出て碁盤の目に整備された路地を、端から端まで軒を並べた店をのぞきながら歩き回って過ごしました。そんなある日、アイスコーヒーでも飲んで一休みしようと、喫茶店へ入りました。ウエイトレスに知っている単語を並べて、「咖 ga 啡 fei(コーヒー)・冰 bing 塊 kuai(氷)」と告げると、日本語で「アイスコーヒーですか?」と問い返されました。このウエイトレスには、日本語が通じたのでした。出てきたアイスコーヒーを飲みながら、この滑稽で奇妙なやりとりを思い返して(腹の中で)笑ってしまいました。それから数日後、街歩きの途中に同じ喫茶店へ入りました。今度は、日本語で「アイスコーヒー下さい!」と注文しました。しかし、この日のウエイトレスには日本語が全く通じない様子でした。結局覚えたばかりの北京語で注文「我 wo 要 yao 冰 bing 咖 ga 啡 fei」して、アイスコーヒーを飲むことができました。日本ではないのだから、これがごく自然なことですが・・・

 半年間使うことになる自分の机の整理や、日本から持ち込んだ図面の片付けが終わった頃から、新製品の部品調達のためのメーカー巡廻が始まりました。先ずは、工法別に選定した部品メーカーを訪問して、部品手配をスタートさせる作業です。具体的には、図面と現物を前にした「部品形状の説明・工作上の重点部位の説明・メーカーの品質確保手段の確認・調達日程の確認・購入コストの確認」などです。この作業を、購買担当の現地スタッフと進めました。技術課題についての説明や確認は、現地スタッフの通訳を介して進めざるを得ません。説明したいことが間違いなく伝わるように、又確認漏れがないように気を使わなければならなかったことと、直接伝えられないことのもどかしさや苛立ちも加わり、本当に疲れる毎日でした。訪問したメーカーは一日平均4社(午前と午後それぞれ2社)で、全ての部品の発注を終えるまでに10日ほどかかりました。この初回のメーカー巡廻を終えた時、先ずは前述の疲れからの開放に対して、正直ホットしました。同時に、これからの半年間の仕事と日々の生活に対する言葉の重要性をつくづく痛感しました。

 そんなことを思うようになったある日、滞在していたホテルの受付の娘に北京語を教えてほしいとお願いしました。すると、彼女は快く引き受けてくれました。北京語は、37の注音符号( bo po mo fo)で漢字の発音を表記します(この表記は、今では台湾でしか使われていません。)。彼女の提案で近くの本屋へ行って、現地の幼児が言葉を覚えるために漢字と注音符号が併記された絵本を買い、注音符号の学習を始めることにしました。現地の人の話では、日常会話に使う漢字は500字程度とのことでした。だとすれば、この500字の漢字について日本語の「音読み・訓読み」に合せて「北京語読み」を覚えれば、相当の会話ができることになります。ただその500字はどの漢字なのか、皆目見当がつきません。現実には、日々の生活の中で一つずつ覚えるしかありませんでした。学習は、仕事を終えてホテルへ帰り、着替えをして夕食へ出かけるまでの2時間ほどの間に、彼女の時間が取れる30分から1時間を費やして行いました。こんな学習を二週間ほど続け、まだまだ完全とはいえませんでしたが、注音符号とその発音を半分ほど覚えました。北京語の学習はこんな状況でしたが、訪台して一ヶ月が過ぎて、台湾での生活にも少しずつ慣れてきていました。習い始めた注音符号を全部覚えていないことが心残りでしたが、より早く言葉を覚えたいと思い、そして又台湾のことをより多く知りたいと思い、ホテルを出てアパートへ移り住むことにしました。

 アパートは、現地の生活に早く馴染むために、敢えて日本人のいないことを条件に、メーカー巡廻を共にした購買担当の人に頼んで探してもらいました。探し始めて一週間ほどしてアパートが見つかり、訪台以来約一ヶ月間過ごしたホテルの皆さんにお礼を云って、アパートへ引っ越しました。場所はこれまで慣れ親しんだ中区の直ぐ隣で、台中市から台中港へつながる台中港路沿いの五階建のしっかりした建物でした。一階が大家さんで、二階からがアパートになっていました。翔の部屋は、五階(実際は四階ですが、四と死は発音が似ているので四を使いません。)の一番西寄りでした。後で知りましたが、西寄りの部屋は暑いので現地の人は嫌うそうです。然し翔にとっては、窓の外に廟と大きなガジュマルの木が見え、快適でした。外から部屋へ入るまでは、先ず高いコンクリートの塀で囲まれた敷地へ入る扉、次には建物へ入る扉、更には二階からのアパートへ入る扉、そして部屋の扉(全部で四つ)があり、それぞれの扉にカギがついていました。それだけ、ぶっそうな国なんだと思いました。部屋は、玄関を入った右手は小さな流しとガス台、左手はトイレと洗面台、その奥は浴室、そして玄関を入った正面奥は寝室を兼ねたリビングで、「ベッド・クローゼット・電話・冷蔵庫・テーブル・椅子(二脚)・エアコン」が備え付けられていました。リビングの奥はベランダで、洗濯物が干せるようになっていました。さほど広くはありませんでしたが、一人で過ごすにはそこそこの作りでした。引っ越した初日は、「寝具・洗面具・コップ」など、とりあえず必要な生活用品の買い揃えで、結構夜遅くまで走り回りました。中華路の夜市では生活用品も夜中まで売っており、本当に助かりました。落ち着いて過ごせるように、部屋の内装「壁掛・植木・テーブルクロス」などは少しずつ揃えました。こうして、現地の人たちの中での生活が始まりました。

 4廟-340
 
 アパートの住人は、殆どが若い独身者でした。二階からのアパートへ入る扉の横には各部屋へ電話を取り次ぐ交換室(兼若い人たちの溜り場)があり、いつも5~6人が集まって「しゃべったり・トランプをしたり」していました。移り住んで暫くしてからですが、翔が仕事から帰ってこの交換室の横を通ると、みんなで「你 ni 回 hui 来 lai 了 le(お帰り)」と声を掛けてくれるようになりました。いつも黙って静かに通り過ぎていた翔(日本人)に、興味もあったようです。こうして、翔もこの溜り場へ参加するようになりました。そうして知り合ったみなさんは、「近くの病院へ勤めている人・翔の勤めている会社の近くの大学生・舞店(ダンスホール)で働く人・カンフーをやっている人」などで、いろいろな話を聞たり、いろいろなところへも案内してもらいました。最初は、「哪 na 裡 li 来 lai 了 le ?(どこから来たのですか?)」、「做 zuo 什 shen 麼 mo ?(何をしているんですか?)」、などといろいろ聞かれましたが、とても聞き取れませんでした。しかし、筆談したり、片言の英語で話したりしてなんとか理解できました。どうしても分からない言葉があった時はメモをして持ち帰り、辞書で意味と発音を調べるようにしていました。辞書は現地の国語辞典を使い、発音はホテルで習った注音符号で確認しました。こんな生活をして二ヶ月ほど過ぎた頃から、北京語が断片的に少しずつ耳に入って来るようになりました。又簡単なことは、話すまでにはいきませんでしたが、単語を並べてなんとか伝えられるようになってきました。

 会社への通勤は、当初ホテルにいた頃は言葉が全く分からなかったので、タクシーを予約して利用していましたが、アパートへ移ってからは言葉や環境に少しずつ慣れてきたので、朝は流しのタクシーを拾って出社、帰りは会社の通勤バスを使うようにしました。当時流しのタクシーは、アパートの前の道路沿いに出て2~3分も待てば必ずつかまえることができました。ただタクシーといっても、外観の塗装が傷ついたり凹んだりはもちろん、サイドミラーが無かったり、ウインドウレギュレーターのハンドルが無かったり、フロアーに穴があいている車もありました。運転手は客を乗せている意識が全くなくて、カーレースのような荒っぽい運転が多く、そんな時にはついついアシストグリップを握ってしまうことがよくありました。混んでいる時などは、故意に前の車にぶつけることもありました。しかしぶつけられた相手は怒りもせず、互いになにくわぬ顔をして運転しているのには少々驚きました。交通マナーの悪さはタクシーに限らず、歩道を歩いていてもバイクが通り抜けて行くこともあり、信号無視は当り前の交通事情でした(最近では随分よくなりましたが・・・)。こんな交通事情ですので、タクシーを拾う(選ぶ)時も、街歩きをする時も、当然注意するようになりました。不思議なことに、暫くすると、そんな交通事情が当り前にも見えてくるようになりました・・・

 5交通事情-340
 
 新製品の部品手配をスタートさせるための外注メーカー巡廻の後は、初品が入荷されるまで外回りの仕事はありませんでした。そこで暫くの間は、日本でやり残していた「社内用組付図・構成部品表・製品規格・技術指導書」の作成を進めました。社内用組付図と製品規格は、従来製品に準じて作成できる内容でしたので、全てを一任して、現地のスタッフと女子社員にお願いしました。構成部品表と技術指導書は、新製品としての変更部分が沢山ありましたので翔が主体で進め、段取りができてから現地の皆さんに協力をお願いしました。

 翔は、先ず構成部品表の作成から取り掛かりました。構成部品表は製品に使われている全ての部品を機能別に分類して、どの部品がどこに取り付くかを分かるようにしたものです。見開きの左の頁は、それぞれの部品の構成を分かるようにした斜視図(現場の作業者はこの斜視図を頼りに仕事をしますので、重要な資料になります。)を入れ、右の頁はそれらの部品の「品番・品名・個数」などを表にします。翔は先ず部品の機能別分類と、右の頁の表を日本語で作成しました。こうして段取りをした後、左の頁の斜視図作成と翔には困難な品名の中文化については、現地スタッフにお願いしました。全部で20頁ほどのボリュームでしたが、皆さんの協力のおかげで結構早く(一週間余)完成できました。中文の品名は、日常会話とは違い普段使わない漢字が沢山「上shang 臂 bi(フレーム)・墊 dian 圏 juan(ワッシャ)・蝸 wo 桿 gan(ウォーム)など」ありましたので、音順に日本名を基準に中文名を併記した、便利帳としても整理しておきました。この便利帳は、後々仕事を進める上でも、又北京語を覚える上でも、大変役に立ちました。

 構成部品表を仕上げた後は、技術指導書の作成に取り掛かりました。製品を段取りよく、そして確実に組み付けるための組み付け手順と、それぞれの過程での確認事項を記した技術指導書は、生産のための工程計画書の基になる資料ですので、現地技術部の試作室で、日本から持ち込んだ試作品の分解と組付を繰り返し、組み付け過程での確認事項を一つずつチェックしながら慎重に進めました。技術部の試作室には一通りの工具はありましたが、皆で使うことが多くてなかなか思うように使えなかったことと、又これからも必要になると思い、自分専用の工具を揃えました。工具の調達は現地の人に頼めば簡単に揃えることはできましたが、社内のいろいろな部署や人をより多く知りたいと思い、敢えて自分で社内の工具室へ出向いて揃えました。こうして工具集めからスタートした技術指導書の作成作業でしたが、構成部品表を作成した時作った斜視図を利用したり、翔の作成した日本語説明文の中文化も、現地スタッフとの連携で順調に進み、三週間ほどで完成できました。

 この工具集めの時に知った、北京語の奥深さを少しお話しておきます。「工具室はどこですか?」などと人にものを訪ねる時は、先ず「我 wo 問 wen 你 ni(お尋ねします)」と言いますが、「問 wen」が「吻 wen」になると、全く別の意味になってしまいます。又「ドライバーはどこですか?」は、北京語では「起qi子 zi (ドライバー)在 zai 哪 na裡 li ?」といいますが、「起qi子 zi」が「妻qi子 zi」になると、これも又全く別の意味になってしまいます。北京語には、発音するときに息を出す「有気音」と息を出さない「無気音」の区別や、「四声」と呼ばれる四つの声調による発声の区別があり、日本人には同じように聞こえる音でも、これらの区別ができないと全く別の意味になってしまいます。一度だけの話しかけで「言葉が通じない!」とあきらめてしまわないで、しつっこく何度も発声を変えて話してみることが肝心です。

 訪台して二ヶ月ほどが過ぎ、前述した日本でやり残した資料作りが終わった頃、メーカー巡廻して発注した部品の初品が入荷し始めました。受入検査は、基本的には品質課の担当ですが、新製品の場合、検査規格も十分でないことが多いので、特に重要部品については、翔も立ち会うようにしました。明らかな寸法不良や出来栄えの悪さは一目瞭然ですが、仕上げの良し悪しや耐久性については、試作品に組替えて性能評価を行って確認しました。新設部品は全部で60点ほどでしたが、初品で合格した部品は、小形の簡単な切削物数点のみで、殆どの部品が不合格でした。具体的な主な不具合内容は、「プレス部品に接合したピンやブッシュのカシメ強度不足・焼結部品の密度不足・DC部品の内部の巣・インサート軸のインサート部の強度不足・樹脂部品のフローマークやヒケ」などでした。インサート軸のインサート部には、抜け方向と回転方向の強度を持たせるための加工(セレーション)が図面指示してありますが、驚いたことに現物にはその加工が施されていませんでした(後で分かりましたが、工程を減らすためにメーカーが勝手に廃止したとのことでした。)。これらの初品の不具合状況から、特に目に見えない部分には注意が必要だとつくづく思いました。

 こうして品質課の人たちと仕事を始めたとき、その職場で日帰りの慰安旅行があり、一緒に行かないかと誘われました。何も断る理由もありませんでしたので、参加することにしました。そこは、台中市から車で一時間半ほどの南投県の渓頭というところにある、森林浴を楽しむ遊歩道の整備された自然公園でした。公園入口の右手にはさほど大きくはない渓流があり、その川沿いには緩やかな石段が続いていました。その石段を暫く登ると、平らな山道に変わり、そこには桧林が広がっていました。桧の根元には、日本では見られない熱帯性の大きなシダ類が生えており、やはりここは台湾だなあと感じました。桧林に囲まれた遊歩道は、どこもひんやりしていて、心地よく散策できました。道はまだまだ続いていたかも知れませんが、翔たちは神木と呼ばれる桧の下で昼食と休憩をとり、引き返えすことにしました。一日だけでしたけど、埃っぽい街中から離れ、久々にリフレッシュできる時を過ごすことができました。

 6渓頭-340
 
 初品入荷に合せて、メーカーから調達した部品の不具合を改善するための、メーカー巡廻が始まりました。メンバーは「品質担当1名・購買担当1名・そして翔」の3名で、まず品質担当者からメーカーへ「評価結果・不具合内容」を説明、次にメーカーを含めた各メンバーで「工程確認・不具合原因特定・対応策決定」、そして購買担当者が工程変更に伴う「コスト変動・次回納入日程」を確認、このような手順で改善活動を進めていきました。当然のことですが、時間がかかる作業は、不具合原因を見いだして対応策を決める作業です。このため、メーカー巡廻は一日(平均して)せいぜい2社(午前と午後それぞれ1社)程度でした。特に「DC部品・樹脂部品」の成形不良への対応には専門知識が必要で、DC成形の専門家や材料メーカーの技術情報収集と、情報に基づくトライアンドエラーでの改善活動になり、トライの度にメーカーを訪れ品質確認に立ち会うなど、多くの時間がかかりました。トライ品(改善品)が納入される度に、品質確認と改善活動を繰り返し、全ての部品が合格するまでには、発注してから四ヶ月ほどかかりました。

 当時の台湾の部品メーカーを含めた経済事情は、1970年代後半から始まった政府指導によるグローバル化が進み、日本を含めた先進諸国の投資により、様々な産業が発展途上の状況で、どこのメーカーも収益が伸び始めており、新しい「知識・技術」の習得にも力を入れていました。このような状況でしたので、改善活動に対してもメーカーは積極的に協力してくれました。メーカーにとっても、結果的に改善活動を通して新しい「知識・技術」を得ることにもなります。当時景気が良かったことと、そのお返しもあると思いますが、メーカー巡廻でのお昼は、メーカーの接待で近くの料理店へ行って食事をするのが日常でした。又、夕食会やクラブへの招待も度々ありました。夕食会では、普段なかなか食べられない「伊勢蝦・ロブスター・フカヒレスープ・鮑」など、贅沢な料理を味わいました。食事の後は恒例のこととして、日本式や台湾式のクラブへ案内されました。日本式のクラブでは、カラオケやポールダンスに興じる客で一杯でした。そして翔もその一人となり、酒もカラオケも好きになっていきました。又特に印象的だったのは、台湾クラブで出合った独特のディスコダンスです。客も店の娘も、一緒になって狂ったように踊りまくります。最初誘われた時には抵抗を感じましたが、思い切ってやってみると、実に気分爽快でした。このように、当時の台湾は、仕事も遊びも活気に満ち溢れていました。

 7飲み屋-340
 
 台湾では「拝 baai 拝 baai 」といって、先祖の供養や神様へのお祈りが盛んで、毎月二回(旧暦の1日と15日)行います。特に春節(旧正月)と中元節(お盆)は盛大です。前述の品質改善でメーカー巡廻をしていた時、メーカーが工場を拡張して、その安全と繁栄を祈願する「拝拝」がありました。この時、台湾へ来て初めて「拝拝」を経験しました。会場は10~15人掛の円卓が20卓ほど工場の駐車場に並べられ、テーブルには数々の料理と台湾ビールや紹興酒が用意され、載せきれないお酒はテーブルの下にも置かれていました。招待された人たちは、仲間同士でテーブルに着きます。翔も、同僚(設計室・購買部・品質管理部の仲間)と一つのテーブルを囲って席に着きました。拝拝(お祈り)が終わると、爆竹を合図にしてにぎやかな宴会が始まりました。翔も仲間に勧められ、この時初めて紹興酒を味わいました。琥珀色をした紹興酒は、一見ブランデーのようでしたが、飲んでみると少しドロッとしていますが甘味があり、中華料理と一緒に頂くと結構飲み易い酒だなと思いした。宴が進むにつれ、メーカーで知り合った人が次から次と翔たちのテーブルを訪れ、乾杯を迫られました。飲み干すとコップを逆さにして「これが乾杯だ!」と教えられ、飲み方を知らない翔は、ついついコップで10杯ほどの紹興酒を飲んでしまいました。その時はさほどではありませんでしたが、その後同僚とクラブへ行った頃には、目は回り、足元はフラフラで、とても二次会どころではありませんでした。後で知りましたが、紹興酒は小さなグラスで少しずつ飲んだり、お湯割りで飲んだりするのが一般的な飲み方とのことでした。こんなことがあって「紹 shao 興 xing 酒 jiu」は、翔にとっては「小 xiao 心 xin(注意する)酒 jiu」になりました。

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 現地の合弁会社も発展途上の流れの中にあって、取引先からの増加する注文へ対応(翔が担当した新製品も、バイヤーの要望に応えるためのシリーズ展開のモデルでした。)するために、新工場の建設が進められており、丁度この頃完成して、祝賀会と部品メーカーへの披露を兼ねた「拝拝」がありました。翔にとっては、二度目の「拝拝」でした。台中市の一流ホテルの1フロアーを借り切り、30社を超す部品メーカーと、本社(日本)の要人を迎えての盛大で豪華なものでした。ただ個人的には、この日本式のやり方より、外注メーカーで経験した夜風の中での「拝拝」のほうが、お祈りにふさわしいと思いました。

 社内(新工場)では製品の生産化に向けて、設計室から発行した技術指導書に沿って工程計画書が作成され、「生産工程の整備・組付治具の準備・作業要領書の準備」が進んでおりました。本来は合格した部品を使って生産トライを行い、「設備・治具・作業要領書」などの確からしさや、製品の生産品質を確認しますが、部品調達に時間を要している中で生産日程を達成するために、二次トライまでに調達した部品を使って、一回目の生産トライ(25台組付)を行いました。その結果、「工程の不備による組付性の悪さ・治具の使い難さ・作業要領書の不備」などの問題点と、更には組付性や治具の使い易さ向上への対応として、一部の部品は形状を変更しなければならないなど、いくつもの課題が抽出され、部品の変更を含めた工程整備の見直しが必要になり、開発部門としては一部の部品の再設計に、生産部門としては工程整備の改善に、着手することになりました。

 当時台湾は戒厳令下(蒋介石総統が台湾へ移る前の年の1948年に施行され、1987年に解除)にあり、民間人の中にも有事にはいつでも出動する政府予備軍(翔が知っているだけでも、社員の中に何人かいました。)が多くいました。このような政治事情から、業務の進捗に関わらず、日々の仕事は時間内勤務が常になっていました。当然、休日に仕事をするようなことはありませんでした。ただ、戒厳令下といっても施行以来30余年過ぎており、現実には特に今すぐ何かが起こるといった危機感があるわけでもなく、また夜の外出時間の規制があるわけでもなく、至って平穏な毎日でした。

 そんな訳で、退社時はまだまだ日が高く、一日が暮れるまでには沢山の時間がありました。アパートへ移って生活にも慣れた頃からは、退社のバスを途中下車して、ゴルフの練習場へ立ち寄っていました。ゴルフの練習場は、さほど広くはない「打席は20打席・距離は150ヤードほど」の打ちっぱなしと、その裏手には、90~180ヤードのパー3のショートホールが6ホールありました。いつもまず打ちっぱなしで、100打ほど練習をしました。そうしていると、気さくで親切な「老 lao 板 ban(オーナー)」の張さんが来て、「喝 he 果 guo 汁 zhi 休 xiu 息 xi 吧 ba !(ジュースを飲んで一休みして下さい!)」と、林檎サイダーを出してくれました。そのサイダーを飲んで一休みした後は、練習用のショートホールを回りました。使うクラブは、パターとショートアイアン3本ほどでしたが、アルバイトの子供がキャディーをしてくれました。この頃には、結構北京語も分かるようになっていたので、ゴルフの練習よりむしろ子供の掛け声「好 hao 球 qiu(ナイスショット)・右 you 邊 bian(右側)・左 zuo 邊 bian(左側)!」を聞たり、二人で交わす会話の方が楽しみでした。全6ホール回ると辺りが少し薄暗くなって、帰るにはほどよい時刻でした。その後は、アパートへ帰ってシャワーを浴び、着替えをして街へ出てまず食事、そして腹ごなしに夜の街を散策、そしてクラブへ立ち寄って時を過ごす。そんな、日々でした。休みの日には、会社の同僚やメーカーで知り合った人たちとゴルフへ出掛けたり、アパートの人たちと「ボーリングへ行ったり・映画を観たり・食事をしたり・美術館へ行ったり」で、結構退屈することなく過ごすことができました。むしろ、日本にいる時より沢山のことをして過ごしていました。

 或る休日、会社の同僚とゴルフへ行った時の出来事です。ゴルフを終えてアパートへ帰り、財布がないことに気付きました。多分前半の9ホールを回って食事(この時はお金を払ったので)をした後、ゴルフ場のどこかで落としたと思い、タクシーを拾ってゴルフ場へ引き返しました。ゴルフ場の受付カウンターへ行って、財布を落としたことを話すと、そこには財布が届けられていました。しかし、金額がかなり多かったこともあり、自分の財布であることの証明が大変でした。係員の人からは、「どこで落としたのか?」とか、「いくら入っているのか?」など、いろいろ聞かれました。どこで落としたかなんて答えられませんでしたが、財布の中味「台湾$はいくら・米$はいくら・TCはいくらなど」を細かく説明して、ようやく返してもらいました。一番感激して嬉しかったことは、落としたことに気付いた時は半分あきらめていた財布が、他国で親切な人がいて手元に戻って来たことでした。

 9ゴルフ-340
 
 又初めて映画に行った時には、これまでに経験したことの無い状況に驚きました。それは、映画が始まる前にスクリーンに「請 qing 起 qi 立 li(起立して下さい)」の字幕が出て国歌が流れ、字幕に合わせて全員が起立して、国歌を斉唱する情景でした(自由主義が浸透し、1990年代の半ば以降、いつの間にかなくなったようですが・・・)。これは一体何だろうと思い、職場の人に聞たり、自分でも調べてみました。国歌の内容は、三民主義「民族主義・民権主義・民主主義」の精神で、自由な中華民国の建設を歌ったもので、後の孫文総統が辛亥革命で古来の皇帝政治を終わらせ、漢民族の民主化の道を切り開いたことを讃えて、国歌を斉唱するのだと分かりました。国民一人ひとりの心の中には、翔には考えたこともない、民主化(個人の自由)に対する、深くて強い思いがあることを感じました。

 10国歌-340
 
 訪台して、いつの間にか五ヶ月が過ぎようとしていました。何度となく繰り返したメーカー指導で、メーカーからの調達部品も、全て合格品(多いものは、5回の改善を繰り返しました。)が揃い、最終(三回目)の生産トライ(50台組付)が始まりました。工程整備「設備・治具・組付要領書」などの不具合に対する改善効果の確認は、前回(2回目)の生産トライで殆ど終わっていましたので、今回のトライの主な目的は、これまで部品が不完全なために十分確認できなかった、製品の生産品質「量産でのバラツキ・耐久性」などを確認することでした。製品評価は項目別に並行して進め、10日ほどで終わりました。工程整備を含め一部の不具合はありましたが、本生産までに対応できる目処があり、本生産に向けて、部品を調達することになりました。

 量産用の部品を手配して三週間ほどが過ぎ、部品の調達が完了しました。同時に、「工程整備・製品評価」で残された課題の対応も全て完了して、いよいよ本生産が始まりました。日量80台の工程設計でしたが、初日は65台に抑えられました。関係者が見守る中、朝一番に組付を開始した1号機は、多くの作業者の手の中で、「部品が組付けられ・調整され・最終検査を終えて」完成品として、その日の午後3時に誕生しました。その1号機の誕生と新製品の生産開始を、最終工程でテープカットして、関係者の皆さんと一緒に祝福しました。継続して生産は順調に進み、10日ほどで初回ロット(750台)の生産が完了しました。そして初回ロットは、コンテナに積み込まれ、多くの関係者と爆竹に見送られ、貿易港「基 qi 隆 long」へ向けて出荷されました。翔も、無事終わった安堵感の中で、いろいろな出来事を思い浮かべながら、コンテナの無事を祈って、トラックが見えなくなるまで見送っていました。

 こうして、翔の初めての半年間の海外生活は終わりました。そして、その中での数々の出来事「見たこと・聞いたこと・感じたこと」は、翔の中で大切な「想い出・経験・力」になりました。

 2.太魯閣

 太魯閣1-340

 翔(Sho)がそろそろ寝ようとしていたその時、「トントントン・・・」ドアをノックする音がしました。「だれっ?」翔がたずねると、「私!」ドアをあけると、そこには麗華(Lihua)が立っていました。「一体、どうしたんだぁ?」「水道が故障してお風呂に入れないの、シャワー貸して!」麗華が言いました。「いいよ、入って!」翔はなんだかよく分からないまま、そう云いました。そして、麗華はシャワールームへ入っていきました。

 麗華がお風呂から上がった後、翔は事情を聞きました。その時は、そうなんだと納得した翔でした。その夜は既に12時を過ぎて時間も遅かったので、麗華は帰りませんでした。後になって、ほんとうに水道が故障したのだっただろうかと、翔はふと思いました・・・

 翔は一年ほどの間、日本から台湾へ訪れ、台中の某合弁会社に勤めていました。そして麗華は、その合弁会社の近くの高校の先生でした。そこの高校を卒業すると、合弁会社へ就職する生徒も沢山いました。そんな事情で、麗華は、合弁会社へ生徒を引率して度々訪れていました。麗華は、いつも静かで清楚な女性でした。

 翔が合弁会社に勤めて3~4ヶ月が過ぎた或る時、会社の慰安旅行がありました。麗華も、その旅行に誘われていました。行き先は、台湾東部の花蓮と太魯閣(タロコ)、一泊二日の旅でした。初日は、台湾鉄道で台北・宜蘭を経由して、花蓮(約8時間)まで列車での移動で、その夜は花蓮のホテルで宿泊。翌日は、観光バスで太魯閣・九曲洞・大理石工場と展示センターを廻って、花蓮空港から飛行機で台中。そんな、行程でした。

 太魯閣2-340
 
 行きの鉄道では、お互いに別々の席でした。花蓮からの観光バスでは、着席の流れの中で、麗華と翔は隣同士になりした。隣に座った翔は、自分のことを少しずつ彼女に話しかけました。麗華も、学校のことをいろいろ話してくれました。話しているうちに、なんだか以前から知っているような、不思議な思いがしました。この後、太魯閣での散策や大理石工場の見学も、ずっと麗華と一緒でした。

 太魯閣3-340
 
 そんなことがあって、翔は麗華と親しくなりました。そして慰安旅行の後も、休みの日には一緒に食事をしたり、映画を観たり、いろいろなところへも遊びに行くようになりました。

 夏の日曜日、翔は麗華と台中駅からバスに乗って、清水へ海水浴に行きました。一時間ほどして、バスは清水の海水浴場へ着きました。砂浜には松林が続き、海水浴客もまばらで、とても静かなところでした。丁度お昼でしたので、浜辺の近くの海鮮料理店へ入りました。「麗華、注文しようか・・・」二人で魚・貝・野菜を選んで、麗華が調理法を伝えて、注文してくれました。どれも新鮮で、ほんとうに美味しい料理でした。

 太魯閣4-340
 
 食事の後、「泳ごうよ!」翔が誘うと、「私、見ているから泳いで・・・」麗華が言いました。そう言われて海水浴場を見渡すと、若い女性の水着姿は、ほとんど見当たりませんでした。当時の台湾では、女性は、まだまだそんなに解放的ではなかったようです。翔は水着に換えて、海へ入りました。気持ちよさそうに泳いでいる翔を、麗華は松の木陰から静かに眺めていました。帰りのバスでは、海へ入って疲れてしまったせいか、翔は麗華の隣ですっかり眠ってしまいました。

 水道が故障した一件以来、翔は麗華へ部屋のスペァキーを渡していました。その日は、翔は仕事の仲間と食事をして、夜遅く帰りました。部屋には電気が点いて、浴室ではシャワーの音がしていました。「翔、お帰り!」麗華の声でした。「来てたのか・・・」翔がたずねると、「先にシャワーしているよ、翔もシャワーする?」「少し休憩してから・・・」翔が応えました。暫くして、麗華はシャワールームから出て来ました。そして、先にベッドへ入り静かに本を読んでいました。

 麗華は、週に2~3回、翔の部屋を訪れていました。そしてよく、亀田製菓の「あわ雪ソフトせんべい」を買ってきてくれました。「翔おいしいよ、私大好き・・・」そう言われて食べてみると、少し塩味があり控えめの甘さで、おいしいせんべいでした。「麗華ありがとう・・・」翔は、云いました。麗華は、ほんとうに日本が好きでした。だから、日本のお菓子も好きだったようです。でも、お菓子を買って来たのは、日本を離れている翔への優しい思いやりからでした。翔も、その気持ちがよく分かりました。

 土曜日の午後、麗華が訪ねてきました。「私、今日熱があるみたい・・・」「お医者さんへ行ったぁ?」翔が尋ねると、「行って、お薬もらってきたよ・・・」「たいした熱じゃないけど、最近よくあるの・・・」額に触ってみると、殆ど分からない程でした。少し横になるように翔が勧めると、麗華はベッドへ入り休みました。翔もその横で、すっかり眠ってしまいました。

 目を覚ますと、外はもう暗くなって、ネオンの明かりが輝いていました。そして麗華は、ソファーで静かに本を読んでいました。「なんだおきていたのか、起こしてくれればよかったのに・・・」翔が言うと、「よく眠っていたから・・・」麗華は、微笑みながら云いました。「ご飯、食べられそう?」「うん、もう大丈夫だよ・・・」そして、麗華の好きな日本料理の店へ行きました。いつものことながら、沢山食べない麗華でしたけど、おいしそうに食べている様子を見て、翔は安心しました。

 太魯閣5-340
 
 麗華と知り合って8ヶ月ほどが過ぎたころ、翔の合弁会社での仕事は終わり、日本へ帰国する日が近づいていました。そんな或る日、帰国のことを麗華に話すと、「私、分かっていたよ!」「淋しくなるけど、仕方ないね・・・」麗華は、そう云いました。口には出しませんでしたが、麗華も感じていたようでした。そしてこの時、麗華の発熱は、このことが原因していたのではないかと、翔はふと思いました。

 いよいよ帰国が翌日になったその夜、二人で食事をしたとき、「今夜は、一緒にいていい・・・」麗華が訊ねました。「いいよ・・・」翔は、応えました。そして、食事を終え、麗華と一緒に帰りました。

 翔は、翌朝合弁会社で報告する資料がやりかけでした。「報告資料があるから先に休んでいて・・・」翔が云うと、「私、先に休んでいるから・・・」麗華はそう云って、ベッドへ入りました。資料を終え、シャワーをしてベッドへ入ると、麗華はまだ眠っていませんでした。「私たち、また会えるよね・・・」麗華は、尋ねました。「きっと会えるさ・・・」「二年もすれば、また来るから・・・」翔は、そう答えました。

 学校と合弁会社は近くだったので、麗華が泊まった朝は、翔はいつも流しのタクシーを拾って、麗華を送りながら出社していました。その朝も、いつものように麗華を送ってから出社しました。そして、午前中には合弁会社での一年間の出張報告を終え、午後の便で帰国しました。

 太魯閣6-340
  

 それから二年が過ぎ、翔は再び合弁会社を訪れました。さっそく、会社の知り合いに、その後の麗華の様子を尋ねてみました。すると、一年ほど前に学校を退職したとのことで、今はどこでどのように暮らしているのか、その後の様子を知ることはできませんでした。

 まだ学校に勤めていて、必ず再会できると思っていた翔でしたが、結局二年前の別れが、麗華との最後の別れになってしまいました。

 3.台湾鉄道

 台湾鉄道は、全長約850kmで、台湾を一周しています。台湾海峡側の西部幹線は、「基隆・台北・台中・高雄・屏東」を結ぶ約450kmの路線で、その中間部の竹南と彰化の間は、海岸沿の「大甲・台中港」を通る「海線」と、内陸部の「豊原・台中」を通る「山線」に、分かれています。太平洋側の東部幹線は、「基隆・花蓮・台東」を約300kmで結ぶ路線です。そして、南側の南廻線は、「屏東・台東」を約100kmで結ぶ路線です。この三つの幹線で、台湾を一周できるように結ばれています。尚、2007年からは、「台北・高雄」間の345kmを、「最高速度300km/h・100分」で結ぶ、新幹線も開通しています。

 台湾鉄道1-320

 25年前(1985年)、翔(Sho)が始めて台湾鉄道に乗った時のことです。当時、翔は日本から長期出張して、台湾の台中市にある合弁会社に勤めておりました。或る日、板橋の電気メーカーへ出張することになりました。切符は事前に総務にお願いして、行きも帰りも自強号の座席指定を手配しました。当日翔は板橋へ向かうために、西部幹線の山線の台中駅から列車に乗り込みました。そして自分の座席番号を探しましたが、そこには男の人が座っていました。車両を間違えたのかと思い、車両番号を確かめましたが、間違っていません。そこで、翔は座席にいる男の人に切符を見せて、「ここは、私の席ですよ!」そう伝えると、「すみません、どうぞ!」と云って、その男の人は、すんなり席を空けてくれました。こうして、ようやく席に座ることができました。

 台湾鉄道2-320
 
 出張先の電気メーカーのある板橋までは、台中からほぼ二時間を要しました。板橋の駅からはタクシーを乗り継いで、メーカーまでは20分ほどで着きました。この時は初めての訪問でしたので、先ず訪問の挨拶を終えました。そして、行きのできごとを話すと、「こちらでは、殆どの人は座席指定の切符は買いませんよ!」「空いている席に、座ればいいだけだから・・・」と云うことでした。

 そして帰りの電車も同じように、翔の席は空いていませんでした。翔の席には若い女性が座っており、その隣には中年のおじさんが座っていました。そこで、翔は悪巧みを思いつき、どうせ座席指定の切符を持っていないだろうと思い、中年のおじさんに云いました。「ここは、私の席ですよ!」そう云うと、「すみません、どうぞ!」行きの時と同じように、おじさんは席を空けてくれました。

 そして翔は思惑通り、女性の隣に座りました。「どちらまで行くんですか?」翔が尋ねると、「中攊まで!」彼女は、そう答えました。

 翔が乗車した板橋から中攊までは、40分ほどでした。彼女に問いかけると「仕事のこと・自分のこと」など、いろいろ話してくれました。台北の貿易会社に勤めていて、自宅へ帰るところとのことでした。聞き取れない部分もありましたが、衣料品関係の仕事で、時々日本の「大阪・東京」へも行くことがあるようでした。翔は自分のことを話すと、興味(日本に)があったようで、彼女が中攊で降りるまで、お陰で退屈しないで過ごすことができました。

 こんなことがあったので、台湾鉄道の乗車券の購入について調べてみました。全席座席指定の列車(自強号・莒光号・復興号)では、駅の窓口で座席指定の切符を買うことができますが、自動販売機では座席を指定することができず、全て立ち席で切符が販売されています。ただし、席が空いていれば座るのは自由です。又値段は、窓口で買う指定席の切符も、立ち席の切符も同じなのです。このようなシステムになっているので、座席指定の席に他のお客さんが座っていても、当然のことなのです。席の無駄をなくすためには、大変合理的なやり方だと思いました。

 台湾鉄道を初めて経験した時、翔は「みんな、なんて図々しいのだろう・・・」と思いましたが、決してそうではなかったのです。つまらないことで腹を立てることなく、楽しい旅行を過ごすために、是非このやり方を知っておくことが大切だと思いました。

 4.梅花邸

 今から9年前(2001年)、アメリカの世界貿易センタービルがテロ攻撃に遭った年です。この年の春、翔(Sho)は繁忙化する台湾中部の台中市にある合弁会社へ、日本から業務支援のために長期出張していました。ホテル暮らしの翔は、仕事を終えると、馴染みの店でいつも食事をしていました。その後特に予定のない日は、行きつけのクラブへ寄って店の娘とおしゃべりをして、ほどほどに心地よく飲んでから帰るのが日常になっていました。

 梅花邸1(夜の街)-340

 三ヶ月ほどが過ぎ、そんな日常に少し飽きていました。翔は食事の後目的もなく、いつもとは違う一歩奥へ入った道を歩いていました。ふと見ると歩道の左手に「梅花邸」と書かれた、電光表示の看板が見えました。そしてその右手にはそれらしい入り口があったので、ドァーを押して中へ入ってみました。

 中へ入ると、ママさんらしい人から「いらっしゃいませ!どうぞ!」と声をかけられ、案内されるままに、カウンター席へ着きました。初めての店で、後でまた来るか分からないので、手ごろなホワイトホース(ウイスキー)を頼みました。注文するとママの指示で、会計にいた女の子がボトルを取り出してきました。彼女が名前を尋ねたので「翔」と告げると、ボトルに名前を記して持ってきてくれました。よく見ると、名前の隣に「婷婷(Tingting)」と並べて書かれていました。彼女に、「婷婷は君の名前?」と尋ねる、「そう、私!」と、くったくのない返事が返ってきました。

 そのお店は、入った正面右手は5~6人が掛けられるカウンターがあり、その手前にはテーブル席が一つ、左手にはテーブル席が二つ、そしてその奥には、小さなカラオケステージがありました。クラブというより、こじんまりしたスナックでした。初めての店でしたけど、ママさんは話上手で、くったくのない婷婷が可愛くて、ついついいつの間にか時間がすぎていました。

 ボトルを用意してくれた彼女(婷婷)は、ママさんのお手伝いをしているようで、お客さんと話をすることはなく、手が空くと会計席で静かに本を読んでいました。お客さんも少なく静かで、なんでも手際が良くて話上手なママさんと、商売慣れしていない彼女が気に入ったので、それからは、その店によく立寄るようになりました。

 いつものように、食事の後梅花邸へ行った時のことです。その日はうっかりして店の前を通り過ぎてしまい、その瞬間に気がついて、2~3歩戻って立ち寄ったことがありました。店へ入ると婷婷が、「翔、私見ていたよ!」、と笑いながら云いました。入り口のドァーには丸い大きな透明のガラス窓がついており、外の様子がうかがえるようになっていました。翔が立ち寄る時間はだいたい決まっていたので、婷婷が中から気にしていた様でした。

 ほとんど毎日立ち寄っていたので、ママさんや婷婷とすっかり馴染みになっていました。そんなある日、ママさんが「明日、食事しようよ!」と誘ってくれました。翌日翔は云われた通り、夕方7時にお店の前へ行きました。そこには婷婷がいて、「ママさんは先にお店に行っているから、私が案内します」、そう云って、お店まで連れて行ってくれました。

 そこは、梅花邸の近くにある海鮮料理の店でした。翔は、ママさんと婷婷と3人で食事をするのだと思っていました。婷婷は翔を海鮮料理店へ案内すると、ママの指示で、梅花邸を開ける準備をするため、先に帰ってしまいました。海鮮料理はどれも新鮮で、とても美味しい料理でした。ママさんといろいろ話ながら美味しい料理を頂いて、楽しい時を過ごしました。ただ婷婷がいないのは、とても残念でした。

 梅花邸2(海鮮料)-340
 
 それから後も、他のお客さんと一緒の時もありましたが、何度もママさんが食事に誘ってくれました。でも、婷婷が参加することはありませんでした。ママさんとしては、馴染みの客を離したくなくて、食事の招待をしているのだと知りました。

 翔は、どうしても婷婷と食事がしたいと思いました。梅花邸を訪れたある日、婷婷に「今度、一緒に食事しようよ!」と告げると、婷婷は「いいよ!」と、嬉しそうに答えてくれました。そして、次の休みの日のお昼に、梅花邸の前で待ち合わせて、二人で食事をすることになりました。

 当日は、あいにくの小雨でした。翔は少し早めに出かけて、梅花邸の前で婷婷を待ちました。婷婷は、約束した時間通りに来ました。遠くから翔を見つけると、おどけた仕草をしました。翔は、そんな婷婷を可愛いと思いました。この日は、婷婷と二人だけで過ごした初めての時間でした。互いに多くを話しませんでしたが、街の中央の広い公園を散歩したり、その後一緒に食事をして、本当に楽しい時を過ごしました。

 梅花邸3(憩広場)-340
 
 こうして知り合った二人は、休みの日にはよく一緒に出かけるようになりました。そして、翔は婷婷の案内で、普段なかなか気付かない「台湾の意外なところ、台湾ならではのところ」を知ることができました。ここからは、そうして経験したいくつかの想い出を紹介しておきます。

 台湾には、茶芸館が沢山あります。その中庭は和風の庭園になっており、座敷は個室のところもありますが、個室でなくても隣の席とは区分けされ、座敷席からは庭園内の池に泳ぐ鯉が眺められ、一見上品な和食処といったたたずまいになっています。多彩なお茶が置かれているのはもちろん、簡単な食事をしたり、アルコール飲料もあります。ただ食材は、やはり台湾ならではのものも多くあります。変り種を食べてみたいと思い、婷婷に告げると、ドリアンの揚げ物を注文してくれました。独特の匂いは何ともいえませんでしたが、食べてみると結構ビールのつまみには合っていて、なかなか美味しいと思いました。客もまばらで、のんびりと時を過ごすには、とてもいい場所でした。

 梅花邸4(茶芸館)-340
 
 翔が勤めていた台中市の西には、台中港があります。ある日婷婷が友達から車を借りて、彼女の運転で、台中港にある大きな魚市場へドライブしたことがありました。その魚市場は、台中港路をどんどん西へ走り、小さな町「沙路」を通り抜け、臨海路を右へ曲がり暫く走った所でした。防波堤に囲まれた港の中央部には、湾に張り出して埋め立てられた人工の半島が作られ、半島に沿って立てられた大きな建物の中には、新鮮な魚介類や干物を売る店が無数に並んでいました。中秋節や春節の時には、豊富な食材を買い求める人で熱気に包まれるほどに混雑するそうです。この日は特別な時ではありませんでしたが、それでも沢山の人で一杯でした。丁度お昼でしたので、市場の中の海鮮料理の店で食事を摂りました。どれも新鮮で、本当に美味しい料理でした。帰りには、婷婷が家へ持ち帰るお土産に、数点の魚介類を買いました。この頃は翔が婷婷と知り合って間もない時で、何よりも婷婷と一緒に過ごしたことを嬉しく思いました。

 梅花邸5(魚市場)-340
 
 台中市にも、沢山の日本料理の店がありました。ただ一般の中華料理の店に比べると、日本料理の店はどこも結構割高でした。或る時、婷婷が翔の行ったことのない日本料理の店へ案内してくれました。そこは繁華街から少し離れ、大通りから路地へ少し入ったところにありました。一階はカウンター席とそんなに多くはないテーブル席があり、階段を上った二階には座敷席がありました。翔と婷婷は、いつも二階の座敷席へ上がりました。メニューは、串焼き・鶏の唐揚・野菜炒めなどの一品料理が沢山あり、居酒屋風の店でした。値段は手ごろで、どれもおいしい日本料理でした。何度も行きましたが、翔はこの店で日本人のお客さんに会ったことは一度もありませんでした。そんなその店は、翔のお気に入りでした。

 梅花邸6(日本料)-340
 
 当時業界筋の情報では、携帯電話の普及率は80%と云われていました。然しながら、翔の知るところでは50%前後が実感でした。翔は業務支援で出かけた時は、いつも台湾の知り合いから携帯電話を借りて利用していました。この時も、友達から携帯電話を借りていました。婷婷との連絡も、この携帯電話で行いました。ただ電話だとなかなか出られないことが多いので、メールを使うようにしていました。文字入力は、注音符号(発音記号)を用いる方法と、漢字の部首索引で文字を選ぶ方法があります。翔にとって、注音符号での入力は困難でした。翔は、漢字の部首索引で文字を選んで入力しました。これも初めはなかなか大変でしたが、暫くやっていると、熟語での記録が残りますし、又慣れてきました。この婷婷とのメールのやり取りは、翔が北京語を覚えるために大変役立ちました。

 9月の十五夜は、台湾では中秋節といって祝日になっており、月餅を贈ったり、身内が集まってバーベキューを食べて過ごす習慣があります。翔はこの時、他の馴染みのお客さんと共に、梅花邸のママさんにバーベキューに誘われました。バーベキューは、お店の前の歩道で焼きます(台湾では、店の前の歩道までが個人の私有地なのです)。この時は婷婷も一緒で、焼いたバーベキューを翔に取り分けてくれました。お酒を頂いて、他のお客さんともお話をして、本当に楽しいお月見を経験しました。この日は、町のいたるところで爆竹がバンバン鳴っていました。日本に比べると、随分にぎやかなお月見でした。

 梅花邸7(中秋節)-340
 
 翔のホテルの近くで、二人で食事をした時のことでした。食事の後、婷婷が「翔の部屋を見たいな」と云いました。婷婷は、メールの書き出しではいつも翔のことを、「親愛なるお父さんへ」と書いていました。翔も、歳の差のある婷婷を、自分の娘のように思っていました。婷婷は、素直にお父さんの部屋を覗いて見たかったようです。部屋では親子の様に、テレビを見たり、お互いのことを話したりして過ごしました。翔も、婷婷のそんな訪問を、嬉しく思いました。

 思い出すままに、翔が婷婷と過ごした出来事を綴って来ました。もっともっと、色々な出来事が沢山ありました。ここに綴ったのは、その中のほんの一部です。翔はこれまで、何度も仕事で台湾を訪れていました。然しこの時の婷婷との出会いで、これまでには知らなかった、本当の台湾を見つけたたように思いました。この時は1年間の滞在でしたが、早く過ぎてしまいました。あの時「梅花邸」の看板に出会わなかったら、婷婷と知り合うこともなく、このような経験ができなかったのです。翔にとっては、忘れられない、大切な想い出になりました。あの一期一会に、感謝しています。

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